ぼく的にみたバンドたち

2019年にブレイクした人気バンド、King Gnuはぼく的にとっても面白い。

作詞・作曲を手掛けているバンドの中心的人物、常田大希さんはさながら哲学者のようにも思える。それを感じさせるのがやはり代表作たる「白日」だ。

第70回紅白歌合戦でも歌われたこの楽曲、実におもしろい。

ぼく的にはここに、二十世紀最大の哲学者と言われるマルティン・ハイデッガーのいう「実存」に似通った雰囲気を感じた。

ハイデッガーは「不死性のような人間観は虚妄であり、人間は死すべきものである」と捉えたらしい。二十世紀の終わり頃に哲学者が到達したところは、西洋的伝統の哲学が孕む限界への直面であった。

人間が人間中心主義的に作ってきた社会を裏で動かしていた、今まで人々が信じていた哲学と人間観。それらが真っ向から否定されて、二十世紀の哲学は幕を閉じた。

ここらは日本の哲学者、梅原猛さんの遺稿を読んで少しばかり勉強しただけであり、ぼくは哲学専攻ではない。だがこれを読んだだけでも、ぼくは、「今の作られた虚構たる社会はもう終わってるんだナ。限界を迎え、崩壊へ確実に向かっている。天空の城ラピュタのように。」と思った。

 

話が脱線したが、常田さんの「白日」は、「常田さんが思う(今まで彼が信じてきたであろう)人生観なり人間観なりへの限界と虚構性」が音楽を通して表現されているように、ぼくは感じた。

この曲がブレイクしたのは今の社会の状況と人々の意識の変化も影響しているだろう。

誰しもがどこかでうすうす感じている、二十世紀末に哲学者も直面した、いま我々が何気なく過ごしている不気味な社会への違和感が、ついには音楽で一つ形になってしまった。

難しい哲学書と睨めっこしなくとも、聞いているだけでなんとなくわかる。

「やっぱりそうだよね。」と、人々の無意識へと働きかける。

常田さんの音楽性が僕たちの意識の奥深くを揺らしてくる。

そうして出来たウェーブ、共振の波が、2019年の世を揺らしていた。

 

ここまで書いたが、白日以降はどうだろうか。

正直に書けば、「白日」は良かったがそれ以降はあまり面白くなかった、というのがぼくの感想だ。

世間の喧騒間に揉まれ苦しみながら、世間への訴えのような音楽作が続く。

先日出ていた「どろん」という作品は、溜めに溜め込んでいたフラストレーションが一気に溢れ出たもののように感じた。

常田さん自身King Gnuの解散も考えていたらしく、今はもう一度自分自身に向き合う時間をとりたいとどこかで言っていた気がする。

「白日」を作る以前のシンプルなこころで奏でられる常田さんの音楽が聴いてみたい。

 

ぼく的には、和楽器を取り入るくらいの大転換があってもいいと思う。

演歌とかもいいでしょうね。井口さんの演歌はどんな風になるんだろう。

面白くなると思うのだが。

ともかく、何がしかの大きな変化・転換が必要なのは間違いない。

 

だが実は、そのあたりを乗り越えて活躍しているバンドも、存在している。

BUMP OF CHICKEN(以下、バンプ)である。

ぼく的にみて彼らは「情緒の音楽」を奏でていると思う。

根拠はよくわからない。

バンプの音楽を聴けば聴くほど、そうとしか思えなくなっていくのである。

疑いの余地が一切なく、彼ら自身と彼らの音楽への信頼が、ただただそこに在る。

そんなことを感じさせてくれるバンドは、世界に唯一バンプしかぼくは知らない。

 

常田さんは米津玄師さんに影響を受けているらしく、その米津さんはバンプに影響を受けている。何がしか繋がるものがあるのではないだろうか。

もし常田さんがバンプから"直に"影響を受け入れることがあれば、それもかなりの変化・転換をもたらす可能性がある。

今後の日本バンド界はどうなっていくのであろう。

吉報が待たれる。

以上、ぼく的にみたバンドたち、でした。

高校数学と大学数学との間にあるギャップは何か?

しばしば、高校数学と大学数学は全く違うと言われる。

高校では数学が得意でも、大学の数学を学ぶとそのギャップに驚き挫折してしまう人も少なくはない(私自身も大学数学の考えを受け入れるのにかなり苦労した経験がある)

それはなぜなのか?それを生み出しているものは一体何なのか?

ここではそのギャップについて私なりの考えを述べたいと思う。

大雑把に言うと、高校数学は主に17世紀の数学であり、それに対し大学の数学は主に20世紀(以降)の数学に相当する。

年代的にもギャップはあるが、それよりもこの間に起こったある出来事によって、大きなギャップが生まれているのである。

そのある出来事とは、数学界にあるパラダイムシフトが起こったのである。

具体的に言うと、ブルバキと呼ばれる数学者集団などの仕事により、数学を集合論を基礎として再構築しようという試みが20世紀初頭に行われた。

これにより、現代数学が厳密かつ公理的に打ち立てられるようになった。

ブルバキの影響は次第に低下していったが、それが現代数学に及ぼした影響は計り知れない。

ブルバキ公理論は構造主義と呼ばれ、他にもヒルベルトの公理主義などがあり、これも現代数学に大きな影響を及ぼした。

詳しくは次を見てほしい。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/emath1996/2000/Spring-Meeting/2000_Spring-Meeting_68/_pdf

さて、ここで例を挙げよう。例示は理解の試金石だ。

17世紀頃、つまり高校数学の時点では、例えば自然数とは何か?や、実数とは何か?のような問いは考えないことにしていた。

つまり、そのようなものは前提としてあるものとして考えていたのである。

(大数学者ガウスも、実数とは何かについては知らなかった)

だが、上記のパラダイムシフトが起こった以降では状況が変わる。

数学者は、自然数、実数などを(今回の例では)有名なペアノの公理系による自然数の構成や、デデキント切断やコーシー列による実数の構成などを考えることによって、集合論を基礎として厳密かつ公理的に数学を構築し始めた。

これは、今まで当たり前と思っていたものに対し、本当にそうか?と疑問を投げかけ、考え直しているということである。

1+1=2、(-1)×(-1)=1、なども普段我々は「そんなの当たり前じゃないか」と思うだろう。だが、数学者はそこに疑問を投げかける。

公理を打ち立て、推論を行い、厳密に定理を証明する。

そうして初めて、それらの概念を受け入れるのだ。

どうしてそんなことをするんだ?何か意味あるの?と思うかもしれない。

だが、このスタイルを受け入れることによって、全く見える世界が違ってくるのだ。

20世紀以降、今まで見てきた中で数学者は何をしているのだろうか?

一言で言うなら、抽象化に他ならない。

抽象化とはつまり、無駄なものを削ぎ落とし、物事の本質を見ると言うことだ。

自然数とは?実数とは?

この問いに対して、無駄なもの(我々が無意識的に持っている先入観など)を削ぎ落とし、その本質を探っているのだ。これはまさに、抽象化そのものだ。

ありとあらゆるものを抽象化をし、その本質を探っていくことで、今まで見ていたものとは全く違う景色を眺めることができる。

その実体験はあなた自身で是非、味わって見てほしい。

私のオススメは、ベクトルだ。高校数学でお馴染みのベクトル。だが、あなたは本当にベクトルの本質、真の姿が見えているだろうか?

ベクトルとは何か?という問いに、一度思考を巡らせて見てほしい。

これまで高校数学と大学数学との間にあるギャップについて述べてきた。

高校数学までは集合論を本格的にしないため、この集合論を基礎に数学を考えていくという20世紀以降のスタイルは、初めはなかなか受け入れ難いものであると思う。

このような時代の変化が、今回述べているギャップを生み出している大きな原因になっているのではないかと思う。

現代ではさらに高度な抽象化が進み、ますます難解なものになってきている。

しかし、臆することはない。

むしろ、複雑化を極めている現代社会を生きていく上で、この本質を見極める技術は今後ますます重要になってくるだろう。

数学は我々の人生をより豊かにしてくれるものであると、私は強く信じている。

これを読んでいるあなたが少しでも数学を受け入れ、人生をより豊かに生きる一助となれば幸いである。

 

 

 

 

 

 

 

何かを為すために

何かを為すために『得る』ことが重要であることは言うまでもない。情報社会に生きる我々は、毎日のように様々なニュースなどの情報を大量に得ることができる。

このような情報収集により、時代の流れを読んだり、新しいアイデアの着想を得たり、自由に学んだりできる。

だが、『捨てる』ことは得ること以上に重要である。

このことをきちんと理解し、実践している人は多くはないのではないだろうか。

情報を収集するだけで満足し、十分に消化することなくただただ情報を浴びて理解したつもりになってしまうと、そこからは何の進捗も生まれない。

この、分かったつもりになっている状態はかなり危険である。

真に理解していないと、そこから独創的な発想は生まれないからである。

情報を活かし、自分の力にしていくには、『得る」ことと『捨てる』ことの両方が重要であり、そのバランスが大事なのである。

そもそも、情報を得る目的は何だろうか。

そこから何かの答えを探すため?

そうではないはずだ。

情報を読み込むことで、『何が分かっていて・何が分かっていないのか』を確認することが目的であるはずだ。

そして、分かっていることに関してはそれを理解し、理解したら切り捨てる。

それから何が分かっていないのか、つまり今解決できていない課題は何かに関心を集め、その解決に取り組む。

既知の情報を捨て、課題の本質を見極める。

それが、『捨てる』ことの目的である。

これを繰り返していくと、課題発見に対する感覚が磨かれてくる。

今ままで何となく見過ごしてきたものにも、新しい視点を持って取り組むことができ、見えてくる世界がまるで違ってくる。

そうして発見していくところに、チャンスも埋まっているのだ。

是非今から、まず徹底的に情報を集め、それらを読み込んだら思い切って捨てることを意識して、新しい世界を見つけていってほしい。

きっと、素敵な世界が待っているはずだ。

 

 

 

脱近代・脱標準化による新しい時間感覚とそのビジョン

これからの世界は、脱近代・脱標準化の流れが確実にくると思っている。

僕は、筑波大助教・メディアアーティストの落合陽一先生の提唱するデジタルネイチャーという世界観が非常に好きで、世界は確実にこういう世界になっていくと確信している。デジタルネイチャーについては落合先生が書籍やSNSで解説されているので詳細は省かせていただくが、この世界観を考えると、世界が脱近代・脱標準化していくのはある意味当然であるようにも思える。

なぜなら、この世界観では物質の世界と仮想の世界、人間と機械との壁が完全に溶けていき、あらゆることを個別最適化していくことが重要となるため、それにより近代的世界、あらゆる標準化が消滅していくことが自然と考えられるからだ。

ここでは特に脱標準化に目を向け、自分が現在の時間感覚に疑問を感じたことを、上記の世界観を基に考えていきたいと思う。

今現在、我々は、一日を24時間、一年を365日として(閏年という誤差はありますが)過ごしており、このことが当たり前になってしまっているのでそこに疑問を感じることはほとんどない。

究極、これは人類が決めてきたことであり、そう決めたからそれでいいんだ、という意見もあると思う。

しかし、僕は新しい世界観の到来・パラダイムチェンジが起こっている現代にはもはやこれはふさわしくないものではないか?と疑問を感じざるを得えなかった。

今の時間基準には、世界に標準時子午線というものがあることはご存知だと思うが、ここに標準というワードが出てきている時点でこれは脱標準化時代の前に消滅していくことは自明である。

では、どうやってこの問題を解くのか?

一律に時間を決めてないと、世界はめちゃくちゃになってしまうではないか!と思うことは最初の疑問としてあると思う。

ここで考えなくてはならないのは、前述の落合陽一先生の世界観で述べた、物質の世界と仮想の世界との壁が溶けていく、という視点だ。

技術は何であれ、例えばVR技術が発達し、今のメガネよりも断然手軽に(もしかしたら脳内にでも埋め込んで)なり、自分の見ている世界が現実なのか、それとも仮想なのかわからなくなった場合、もはや我々は均一の決められた世界標準の世界観で生きる必要はない。要は、時間の個別最適化を行うわけだ。

一日は24時間じゃなくてもいいし、一年は(当然ですが)365日じゃなくてもいい。この数字がなんであるかはもはや重要なポイントではなく、それぞれ個人が、それぞれの世界で自分なりの最適化を行えばいいわけです。

そんなのめちゃくちゃだ!と、思うだろうか?

そう思うのはおそらく、現実世界との整合性が保てないのではないか?という疑問からきているものだと思う。

つまり、「そんなこと言っても、現実的に俺たちは時間の打ち合わせや待ち合わせをしたりしなきゃいけないじゃないか!」というわけだ。

ところで、現実とはなんだろうか?

これは非常に難しい問いだが、サセックス大学サッケラー意識科学センターのアニル・セス博士の定義に感動したので紹介させていただく。

セス博士はTED2017に登壇した際(意識とAIについてのトーク)に、このようなことを言われた。「実際に、今、この時も私たちは常に幻覚を見ています。ただ、人が自分たちの幻想に対して"合意"する時、それを現実と呼んでいるのです。」

ここでいう幻覚は、"制御されていない知覚"のようなものだとする。

そうすると、知覚そのものも幻覚のようなものであるので、上記の結論にたどり着くのだ。

この定義を用い、現実の定義を"再定義"すれば、時間の個別最適化を行なったとしても、我々はそれぞれの時間に対し、時間を共有しようと思えば"合意"すればよく、世界はめちゃくちゃにはならないし、生活に支障も出ないだろう。

ここまで既存の時間概念に疑問を投げかけ、Why?に焦点を当ててきた。

さらなる議論として、時間を個別最適化する際のHow?の観点をさらに考える必要がある。

というのも、私は一日を30時間とする!俺は20時間!とかいうレベルの話では、わざわざ最適化するメリットがないからだ。

時代は進んでも、このままでは時間感覚を変革する必要性が感じられないだろう。

これを解くには、この今までの時間感覚から脱する必要があると考えている。

これは一種の脱近代化であり、近代的時間感覚を超克するということに相当する。

この部分の具体的な理論はまだ固まっていないが、とにかく、近代的時間感覚を超克し、新しい世界観を構築していくこと、ありとあらゆる個別最適化を進めていくこと、時代に適した生き方を模索していく必要があることは確かだ。

課題はあるにしろ、このような世界観にシフトしていくのは必然であり、乗り越えていかなければならない分岐点に我々は今、立っているのだ。

『時間とは何か』という深い問いに立ち向かい、新時空論の創始すること。それが未来を切り開くために必要である、と強く思う。