脱近代・脱標準化による新しい時間感覚とそのビジョン

これからの世界は、脱近代・脱標準化の流れが確実にくると思っている。

僕は、筑波大助教・メディアアーティストの落合陽一先生の提唱するデジタルネイチャーという世界観が非常に好きで、世界は確実にこういう世界になっていくと確信している。デジタルネイチャーについては落合先生が書籍やSNSで解説されているので詳細は省かせていただくが、この世界観を考えると、世界が脱近代・脱標準化していくのはある意味当然であるようにも思える。

なぜなら、この世界観では物質の世界と仮想の世界、人間と機械との壁が完全に溶けていき、あらゆることを個別最適化していくことが重要となるため、それにより近代的世界、あらゆる標準化が消滅していくことが自然と考えられるからだ。

ここでは特に脱標準化に目を向け、自分が現在の時間感覚に疑問を感じたことを、上記の世界観を基に考えていきたいと思う。

今現在、我々は、一日を24時間、一年を365日として(閏年という誤差はありますが)過ごしており、このことが当たり前になってしまっているのでそこに疑問を感じることはほとんどない。

究極、これは人類が決めてきたことであり、そう決めたからそれでいいんだ、という意見もあると思う。

しかし、僕は新しい世界観の到来・パラダイムチェンジが起こっている現代にはもはやこれはふさわしくないものではないか?と疑問を感じざるを得えなかった。

今の時間基準には、世界に標準時子午線というものがあることはご存知だと思うが、ここに標準というワードが出てきている時点でこれは脱標準化時代の前に消滅していくことは自明である。

では、どうやってこの問題を解くのか?

一律に時間を決めてないと、世界はめちゃくちゃになってしまうではないか!と思うことは最初の疑問としてあると思う。

ここで考えなくてはならないのは、前述の落合陽一先生の世界観で述べた、物質の世界と仮想の世界との壁が溶けていく、という視点だ。

技術は何であれ、例えばVR技術が発達し、今のメガネよりも断然手軽に(もしかしたら脳内にでも埋め込んで)なり、自分の見ている世界が現実なのか、それとも仮想なのかわからなくなった場合、もはや我々は均一の決められた世界標準の世界観で生きる必要はない。要は、時間の個別最適化を行うわけだ。

一日は24時間じゃなくてもいいし、一年は(当然ですが)365日じゃなくてもいい。この数字がなんであるかはもはや重要なポイントではなく、それぞれ個人が、それぞれの世界で自分なりの最適化を行えばいいわけです。

そんなのめちゃくちゃだ!と、思うだろうか?

そう思うのはおそらく、現実世界との整合性が保てないのではないか?という疑問からきているものだと思う。

つまり、「そんなこと言っても、現実的に俺たちは時間の打ち合わせや待ち合わせをしたりしなきゃいけないじゃないか!」というわけだ。

ところで、現実とはなんだろうか?

これは非常に難しい問いだが、サセックス大学サッケラー意識科学センターのアニル・セス博士の定義に感動したので紹介させていただく。

セス博士はTED2017に登壇した際(意識とAIについてのトーク)に、このようなことを言われた。「実際に、今、この時も私たちは常に幻覚を見ています。ただ、人が自分たちの幻想に対して"合意"する時、それを現実と呼んでいるのです。」

ここでいう幻覚は、"制御されていない知覚"のようなものだとする。

そうすると、知覚そのものも幻覚のようなものであるので、上記の結論にたどり着くのだ。

この定義を用い、現実の定義を"再定義"すれば、時間の個別最適化を行なったとしても、我々はそれぞれの時間に対し、時間を共有しようと思えば"合意"すればよく、世界はめちゃくちゃにはならないし、生活に支障も出ないだろう。

ここまで既存の時間概念に疑問を投げかけ、Why?に焦点を当ててきた。

さらなる議論として、時間を個別最適化する際のHow?の観点をさらに考える必要がある。

というのも、私は一日を30時間とする!俺は20時間!とかいうレベルの話では、わざわざ最適化するメリットがないからだ。

時代は進んでも、このままでは時間感覚を変革する必要性が感じられないだろう。

これを解くには、この今までの時間感覚から脱する必要があると考えている。

これは一種の脱近代化であり、近代的時間感覚を超克するということに相当する。

この部分の具体的な理論はまだ固まっていないが、とにかく、近代的時間感覚を超克し、新しい世界観を構築していくこと、ありとあらゆる個別最適化を進めていくこと、時代に適した生き方を模索していく必要があることは確かだ。

課題はあるにしろ、このような世界観にシフトしていくのは必然であり、乗り越えていかなければならない分岐点に我々は今、立っているのだ。

『時間とは何か』という深い問いに立ち向かい、新時空論の創始すること。それが未来を切り開くために必要である、と強く思う。