高校数学と大学数学との間にあるギャップは何か?

しばしば、高校数学と大学数学は全く違うと言われる。

高校では数学が得意でも、大学の数学を学ぶとそのギャップに驚き挫折してしまう人も少なくはない(私自身も大学数学の考えを受け入れるのにかなり苦労した経験がある)

それはなぜなのか?それを生み出しているものは一体何なのか?

ここではそのギャップについて私なりの考えを述べたいと思う。

大雑把に言うと、高校数学は主に17世紀の数学であり、それに対し大学の数学は主に20世紀(以降)の数学に相当する。

年代的にもギャップはあるが、それよりもこの間に起こったある出来事によって、大きなギャップが生まれているのである。

そのある出来事とは、数学界にあるパラダイムシフトが起こったのである。

具体的に言うと、ブルバキと呼ばれる数学者集団などの仕事により、数学を集合論を基礎として再構築しようという試みが20世紀初頭に行われた。

これにより、現代数学が厳密かつ公理的に打ち立てられるようになった。

ブルバキの影響は次第に低下していったが、それが現代数学に及ぼした影響は計り知れない。

ブルバキ公理論は構造主義と呼ばれ、他にもヒルベルトの公理主義などがあり、これも現代数学に大きな影響を及ぼした。

詳しくは次を見てほしい。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/emath1996/2000/Spring-Meeting/2000_Spring-Meeting_68/_pdf

さて、ここで例を挙げよう。例示は理解の試金石だ。

17世紀頃、つまり高校数学の時点では、例えば自然数とは何か?や、実数とは何か?のような問いは考えないことにしていた。

つまり、そのようなものは前提としてあるものとして考えていたのである。

(大数学者ガウスも、実数とは何かについては知らなかった)

だが、上記のパラダイムシフトが起こった以降では状況が変わる。

数学者は、自然数、実数などを(今回の例では)有名なペアノの公理系による自然数の構成や、デデキント切断やコーシー列による実数の構成などを考えることによって、集合論を基礎として厳密かつ公理的に数学を構築し始めた。

これは、今まで当たり前と思っていたものに対し、本当にそうか?と疑問を投げかけ、考え直しているということである。

1+1=2、(-1)×(-1)=1、なども普段我々は「そんなの当たり前じゃないか」と思うだろう。だが、数学者はそこに疑問を投げかける。

公理を打ち立て、推論を行い、厳密に定理を証明する。

そうして初めて、それらの概念を受け入れるのだ。

どうしてそんなことをするんだ?何か意味あるの?と思うかもしれない。

だが、このスタイルを受け入れることによって、全く見える世界が違ってくるのだ。

20世紀以降、今まで見てきた中で数学者は何をしているのだろうか?

一言で言うなら、抽象化に他ならない。

抽象化とはつまり、無駄なものを削ぎ落とし、物事の本質を見ると言うことだ。

自然数とは?実数とは?

この問いに対して、無駄なもの(我々が無意識的に持っている先入観など)を削ぎ落とし、その本質を探っているのだ。これはまさに、抽象化そのものだ。

ありとあらゆるものを抽象化をし、その本質を探っていくことで、今まで見ていたものとは全く違う景色を眺めることができる。

その実体験はあなた自身で是非、味わって見てほしい。

私のオススメは、ベクトルだ。高校数学でお馴染みのベクトル。だが、あなたは本当にベクトルの本質、真の姿が見えているだろうか?

ベクトルとは何か?という問いに、一度思考を巡らせて見てほしい。

これまで高校数学と大学数学との間にあるギャップについて述べてきた。

高校数学までは集合論を本格的にしないため、この集合論を基礎に数学を考えていくという20世紀以降のスタイルは、初めはなかなか受け入れ難いものであると思う。

このような時代の変化が、今回述べているギャップを生み出している大きな原因になっているのではないかと思う。

現代ではさらに高度な抽象化が進み、ますます難解なものになってきている。

しかし、臆することはない。

むしろ、複雑化を極めている現代社会を生きていく上で、この本質を見極める技術は今後ますます重要になってくるだろう。

数学は我々の人生をより豊かにしてくれるものであると、私は強く信じている。

これを読んでいるあなたが少しでも数学を受け入れ、人生をより豊かに生きる一助となれば幸いである。